英語文化と「自由の扉」について

  

米国は「自由の国」と言われていますが、私はこの数年間の英語文化へのChallengeの最中に、そこに至る「自由の扉」と言うものを見付け、その扉を開ける事が出来たのだと思っています。残念ながらその扉は自由の女神像などのように目に見えるものではありません。しかしそれは意識すれば感じる事が出来るのです。 北米の工場で働いていた時、自分の英語が通用し現地の生活習慣にも馴染んで来た頃、何かの扉をノックしているような音が聞こえました。そして次にATM Forumでの活動を通じ、Debateを乗り越えたという意識を持った時、「その扉」の向こう側に行く事が出来たのです。
「自由の扉」とは自分の内にあるものです。気が付かなければ一生そのまま過ごしてしまうでしょうし、「気が付く」と言うことは既にその扉を開けて中に入っていると言う事なのです。まことに逆説的な論理の様ですが、未知の料理を紹介するようなもので、食べた事の無い者にいくら説明してもその味を感じてもらうのは無理でしょう。食べる事によってのみ、その料理が美味いのか不味いのかが判断出来るのです。従って、まずその料理に興味を持ち「何でも食べてやろう」という意気込みが無ければ扉への第一歩すら踏み出せないでしょう。北米に何年も居ながら日本人村の中だけで生活し、それで満足している人々があまりにも多い事が残念です。